医師として…自分と漢方
小さい頃から身体が丈夫でなかったことから…中学生の頃から漢方薬に接していました。漢方治療の主治医は「大塚敬節先生」でした。それは祖母が大塚敬節先生と知り合いだったからです。
最初は「漢方薬=苦い薬」としか思えませんでしたが、祖母が毎日煎じてくれた漢方薬を朝食の隣にあることから飲ませて頂いていました。大塚敬節先生の漢方治療もお上手だったのでしょう…どんどん元気になっていく自分の姿を覚えています。
■ 大塚敬節先生について
先生のご実家の四谷の診療所まで、毎月、通っていた記憶があります。自分が受診をするころには…沢山の患者さんがいらして1日30人の患者さんしか診て頂けない様になっていました。 知り合いのタクシー運転手の方にお願いして…受付に朝おいてある30枚の受診券を取って頂いていました。色々な方のお力で大塚敬節先生の治療を受けていたことになります。 お写真はWikiPekiaより |
大塚敬節先生の印象は「とても優しい先生」でした。
先生の診察で面白い所は…必ず採尿をさせます。その尿を試験管に入れて眺めている先生の姿を覚えています。これは色や濁りから「実証なのか? 虚証なのか?充血なのか?虚血なのか?」 そんなことを観察していた様に考えています。
■ 湯本求真先生と大塚敬節先生
明治政府は西洋医学を認め漢方医療を認めませんでした。大正時代に入ると漢方薬を扱う医療関係者は殆どいなくなります。そのときに和田啓十郎先生の自費出版での西洋医学で補えない東洋医学の本質の本である医界之鉄椎が出されます。
その頃…湯本先生が娘さんを亡くします。湯本先生が書かれた「皇漢医学」の序章を読むと「娘さんを亡くし気が狂わざるばかり」との文言があり、和田啓十郎先生の医界之鉄椎に出会った経緯が書かれています。湯本先生の皇漢医学(上の写真の皇漢医学は昭和30年後半出版の本)の内容は立派です。薬草の性格にも詳しく話されています。
そして湯本先生の弟子になったのが大塚敬節先生です。大塚先生も娘さんを亡くされています。そんなことも湯本先生の弟子になられた切っ掛けだったのでは?と思います。
湯本先生からの言葉は「漢方は悟りだからな、自分で悟る以外ない」「リュウマチとはどういう病気ですか?との弟子の問いに…リュウマチなどという病気があるのか?リュウマチという幻の病名を追っても治療にはならない」と大塚敬節先生の「漢方ひとすじ」に書かれています。病名に囚われずに身体を診ていく姿勢が大切なのが漢方診療の基本です。ちなみに大塚敬節先生の著作の「漢方ひとすじ」の裏表紙に大塚先生の直筆のサインをして頂きました。
■ 自分に取っての漢方
この様な薬草棚を院内に置いてある…ということは自分の願いでした。
薬草は自分の子供の様な存在で、薬草棚は置きたいと思い大工さんに棚を作って頂き、並んでいるペットボトルは製造元に出向いて無理を言って買わせて頂いたものです。
自分は「漢方薬だから安全だ!」とか「漢方薬だから治る!」とは考えておりません。
ただ…色々な書物を見ながら診察をしていると、漢方薬の医学観念は一般医学に重要な役目を果たすと確信しています。毎日の臨床医療をしながら…新しい医療への道しるべをクリニックから発信できたら、そんな思いがあります。